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C.W.ニコル講演「イヌイットと私」(6)
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僕は北極に探検で15回、旅は40回以上行きましたけれど、昔の文化に戻れっていうことはないだろうけど、今の北極を見て、現代の技術、例えばGPSと無線で氷の上に出て、無線で自分はどこに居るかはっきり言えるんですよね。もし何かあったらレスキュー隊はすぐ来られますね。猟をしながら近代的な教育も受けて、一番いいなと。
最後の話しにしますけど、この湖、Great Bear Lake に2回探検に行きました。これは北アメリカで4番目に大きい湖で琵琶湖の46倍の大きさですね。透明度がすごいんですよ。我々が見た、一番プランクトンがある夏で、42mの透明度があったんですね。人口は600人です。
ここは日本とすごい関係がある。ここから広島と長崎のウラニウムが取れたんです。ここでウラニウムを掘った時に、地元のデネ、インディアンじゃない、デネを使ってました。でも、マスクもあげないし、何も教えないから、癌で死んだり、もの凄く苦しんだんです。それで、しゃべってはいけませんという規則だったけど、歌ってはいけませんと言わなかったから、歌で彼等は語ったんです。
僕は24歳の時、そこに行ってそのことを知って、ポートレイディアム(?)という所で、モニュメントを作ったらどうかと思っていました。長崎と広島と、ネバーランドの砂漠とここで、原子爆弾の為に苦しんで死んだ人の為の塔を作ったらどうかと。今度の愛知万博で、この地域のリーダーに会ってその話しをしたら、是非そうしよう、そして世界遺産条約にしようと。この湖とこの場所で。だから、つながりはずっとあります。
最初僕が北極に行った時は、ショホセック、少年という名前だったんですね。30歳の時はシビナックになったんです。銛を投げる男。最後はトゥニラガ。がんこ爺ぃ。それ僕の最後の名前。トゥニラガはがんこ爺ぃと、お返しする人という意味です。
2回目の探検の時に嵐に遭いました。風が横から来てテントを押してた。テントの真ん中の大事な木が折れそうだったんですよ。僕は上にかぶせてるフライシートをはずしたら中のテントは大丈夫じゃないかと思ったんですよ。先生は相変わらず居ないから、僕一人だったんですよ。
僕の先生がロープを切るのは犯罪だと言うから、一本ずつはずしてたんです。でも雨も雪もあって、ロープは滑るから、ものすごく赤くなってたんですね、皮膚が。5本のロープがあって、4本目は痛くて触れないから、腕に巻きました。それで、引っ張ったんですね。その時、風がぱーっと入って、最後のロープがちぎれて、僕は飛ばされた。それで頭で突っ込んで、頭が割れたんです。先生が帰ってきたら、僕は両耳から血を流して、意識がなかったんですね。何日か後に意識が戻ったけど、もの凄く頭が痛くて、全て忘れてたんです。それから、どもってたんです。
しばらくすごく苦しんで、最後には自殺を図ったんです。でも、運良くライフルに弾が入ってなかったんですね。いつも弾を入れてたライフルを先生が掃除して弾を抜いたんですね。だいたい僕が掃除するんだけど、怪我してたからね。だから僕は死ななかった。
そのすぐ後、ヒットコヤック、シャーマンが来て、僕を丘の上に連れて行ったんです。その丘の上にはお墓がいくつもあったんです。お墓と言っても、膝を抱えて丸くなった遺体の周りに石を積んでたから、石と石の間から見えたんですね。ヒットコヤックが、この人はどんな人だったとか、何をしたとか、何百年前に死んだ人の全てを分かってたんです。「お前が、死ぬなら誰も覚えないよ。頑張るんだよ」と。そして、催眠術だと思うんですけど、僕を座らせて、あごをかけて、彼の膝と合わせて、そして歌ったんです。目が覚めたら、後ろから「立てっ!」と、ものすごい力で。もう80何歳だったけどね。でもしびれて立てないんです。「お前はどうしようもないな。年寄りをいじめて。紅茶位は出せ。」と。それで僕はテントに行って紅茶を出そうとした。そしたら頭痛くない。どもりはあったけど、それほどひどくなかったですね。
その後先生に、「こいつを預けてくれ。」と。我々は嵐で無線もダメになったし、氷が一杯入ったから、出られなかったんですね。事故の後で2ヶ月近く北極に居たんですね。
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