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C.W.ニコル講演「捕鯨調査と庄司船長の思い出」(5)
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もう1つ、誰も発見してなかったんですけど、1.5m位の高さで7〜8m位の深さのもの凄い重い石で出来たトンネルがありました。海に面して入り口が空いていて、その反対側には岩が一杯あるトンネル。岩の方には人間が隠れるんです。そのトンネルの側面には直径15cm位の穴がいくつか空いてたんですね。先生はまた、「これは肉を保存する所だ。」と。肉を置く所だったら穴を開けないだろう。北極には青バエが一杯いるからね。夏に青バエが入ってウジが湧くよ。僕はそのトンネルに入ったら、なんか恐くなったんですね。地面を掘ってみたらアザラシの腰骨が一杯出てきたの。それで僕は分かったんです、「熊の罠だ。」。
あれだけクジラを捕っていたら、当然セイウチやアザラシも獲っていた。あれだけの村があれば肉を置いてましたね。熊が肉を探しに来て、そのトンネルに入った。光があれば白熊が来るのは遠くから分かるから、「熊が来る。」と言うと、恐らくハンターが岩の中で隠れて、熊がトンネルに入ったら、横の穴から人間が槍で刺したに違いないと思ったんですね。それでスケッチをして先生に渡したんです。僕の絵は、全部先生が持って行きましたね。何十年後に北極で90いくつの年寄りに会った時に、これを描いてみせたら、「今は使ってないよ、鉄砲があるから。熊の穴だよ。昔はみんな使ってたよ。」と。
私が初めて人間と鯨のことを考えたのはあの村でした。屋根に使われた太くて白いあご骨。50〜60トンの鯨、6、7頭分の骨が屋根でしたね。その奥に座ってぼーっとしたら、全部この村が浮かんで来たんですよ。その時から「この人達はすごいな。手銛でセミクジラを捕ってたんだな。」と、イヌイットのことを尊敬しましたね。そして鯨のことを考えたんです。このデボン島の探検が終わってから、私はずっと北極に住むと決めてました。あちこちに手紙を書いて、北極で1年半、猟と人間の関係を調べるということで自己負担で小さな小屋を作って、村に住んで、多分1年半居たら可愛い子をみつけるだろうから、イヌイットと結婚して、イヌイットと結婚したらイヌイットになるから、セイウチや熊の猟が出来る、犬を持つことが出来る。「探検家になる。」と決まってたんです。それが3回目の探検の時でした。でもその前に空手をやりたい。僕は沢山貯金をしてたんです。6,000ドル。昭和37年、僕は22歳。1ドル360円の時で、東京では肉が入っているカレーライスが100円。モーニングサービス、コーヒーとパンと卵とサラダで100円。6,000ドルあるから、日本に来てちょっと空手と柔道をやろうと思ったら、まだ居るんだね。
2年半、25歳まで私は日本に居たんですね。日本に来て空手を習って、日本の自然が大好きになったけど、僕の仕事は違うんだと。日本では英会話を教えてたんですけど、英会話を教えられる先生は、もう皆天使だと思う。あれほどイヤなことはないと思いましたね。特に英会話学校の英会話。退屈だった・・・。だから僕は日本に住めないと思ったのよ。本を書いて売れたらいいと思ったけど、やっぱり僕は北極に帰らなくちゃ駄目だと。そうしたら北極水産研究所に海の哺乳動物の技官のポストが空くと、元探検家の友達が教えてくれた。「俺は北極に行ける!」と、カナダに帰りました。でも、北極かと思ったら違ったんです。
世界で2番目に大きい、20m位の大きさのナガスクジラ捕鯨を、ノルウェーの会社がカナダの東海岸で始めることになってたんです。そこに付いてデータを取るというのが私の仕事でした。僕はセイウチの解剖はしたことあったけど、何十トンの鯨の解体はしたことなかったんですね。だから、習わなくちゃならない。そこで、僕はカナダの西海岸、バンクーバーアイランドの北の方で、イワシクジラとマッコウクジラの漁をしていた大洋漁業の所に行ったんです。でも、向こう側の技官と北極技官は違うんです。向こう側はラッコ、太平洋の海の哺乳動物を研究していて、凄いライバル意識があった。白人同士だったし、僕はそこに行ったら、他の技官にすっごい意地悪されたんですね。でも大洋漁業ですから、日本の人が鯨の解体をしていたんですね。肉は日本人が取って、脂はノルウェー系カナダ人が取ってたんです。僕は2年半日本に居た。納豆大好き、刺身大好き、日本語を少し話したから、日本人に可愛がってもらったんですね。だから白人とはあまり付き合わないで、日本人と1ヶ月居たんです。
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